<松ヶ崎城跡の見学会>
千葉県の北西部は、近年都市化が進み、中世の城郭跡などの遺跡はかなりの部分が破壊されている。松ヶ崎城跡など、例外であり、よくぞ今まで500年もの間、残ってきたものだと思う。
(略)
船橋市には、15ほどの中世城郭があったとのことであるが、遺構が多少でも残っているのは夏見城跡、高根城跡、金杉城跡、八木ヶ谷城跡、小野田城跡くらいと少なく、また残存遺構も部分的なものに過ぎない。
その点、手賀沼沿岸の城跡は、破壊されたものもあるが、松ヶ崎城跡を含む一部の城跡はよく保存されている。中世城郭は、もともと中世以来の集落には大抵存在するもので、古墳や貝塚などと違って、日本中どこにでもある遺跡である。ただし、豊臣政権下での一国一城令により多くが破却された。それでも江戸時代以降も残ってきた城跡も多かったが、近代以降の耕地開発や、特に高度経済成長時の工業団地や住宅地などの開発により、いつの間にか、全国各地から多くの中世城郭跡が調査もされないまま消滅していったのである。
手賀沼沿岸地域の城は、手賀沼沿い、あるいは手賀沼に注ぐ水系沿いの台地上に殆どが分布し、「舟戸」「船戸」など「戸」のつく地名が城館のまわりに存在していることが多く、水上交通の拠点であった。
陸上交通も発達し、近世の水戸街道に近い道も存在した模様で、松戸方面〜篠籠田〜大堀川沿い〜我孫子方面へ通っていた。
松ヶ崎城も、そうした手賀沼沿岸地域の城の一つで、 手賀沼と近世の水戸街道の交点に近い交通の要衝であった。
去る2006年4月30日、有志3名で、柏市箕輪にある箕輪城跡を訪ねたことがある。これは戦国末期の技巧を凝らした城。現在、城跡西側には手賀沼病院が建っていて、主郭である第1郭の中央部分が駐車場となり、第4郭全部と第3郭の西よりの一部が病院の建物などが建って破壊されているものの、第1郭周辺の二重堀と腰郭、第2郭全体と第3郭の東側が残っていた。
城域は手賀沼に突き出した台地上にあって、東西約280m、南北180mと東西に広がり、4郭程存在したうち、ほぼ半分の遺構が現存していた*。*2006年当時
<根戸城跡のCG画像>
松ヶ崎城跡に近い根戸城跡は、大部分の遺構が残されている。松ヶ崎城が15世紀後半から16世紀初め、つまり足利将軍家の威光が衰え、戦国初期の北条早雲などが活躍したころの城であるのに対して、根戸城は土塁や堀の構造からみて、戦国中後期の特徴を備えている。
この根戸城跡も手賀にある手賀城跡、さらに箕輪城跡も、城跡の周辺に「舟戸」あるいは「船戸」などと呼ばれる地名が残り、船着場があったとされる。実は松ヶ崎城も船着場があったという伝承があるが、こうした水運を背景に出来たと思われる城を「水辺の城」と呼んでいる。
今では内陸部と思われている本佐倉城も、かつては印旛沼(印旛浦)の水運を背景とした城であった。それは、下総の守護大名である馬加系千葉氏の居城であったが、古河公方足利成氏のいた古河と行き来をしたり、各地から運ばれる物資を集積するのに立地がよいために、本佐倉の地に築かれたという。
手賀沼から少しはずれるが、手賀沼に注ぐ大津川、金山落しなどの河畔にも増尾城跡など城跡は多い。
<増尾城跡の土塁>
面白いのは、川の両岸に対抗するようにある城跡で、例えば大津川下流では大井追花城跡と戸張城跡。この戸張には、相馬氏一族の戸張氏がいたが、古河公方側ではなく関東管領上杉氏側の勢力であった。この戸張城主と向岸の大井追花城主が長年の敵同士で、合戦の時に城主同士が組み合い、どちらかが相手の鼻を食いちぎったという伝承が残されている。
金山落しでは、柏市藤ヶ谷の藤ヶ谷城に拠った相馬氏と対岸の富塚城の勢力が合戦し、川を挟んで互いに矢を射たところ、川のなかに矢が落ちて山のようになり、その場所を矢の橋と呼んだという伝承がある。
こうした話は、あくまで伝説であるが、領地境で戦国時代によくあった土豪の小競り合いが口碑となって伝わったものではないだろうか。
そういう伝承も踏まえて、身近な城跡めぐりをしてみると面白いかもしれない。
(2010年8月の当会会報より)