歴楽講座 2019年度第6回は「房総の戦国武将の伝承と実像」

  • 2019.12.01 Sunday
  • 17:38

JUGEMテーマ:イベント情報

 

<馬加康胤ゆかりの三山七年祭りの様子>

 

戦国期の房総は、下総には名門千葉氏やその族臣である原氏、さらに高城氏、上総には武田氏、安房には里見氏があって、他にも様々な豪族が割拠していました。 関東の覇者を目指した小弓公方も千葉市の生実を拠点としました。そういう戦国期の房総の武将、あるいは房総に進攻した関東の武将たちには、伝承や逸話も残っています。 例えば、千葉氏宗家を滅ぼしてとってかわった馬加康胤には現在も大規模な祭りのテーマとなっている伝承があります。そうした伝承には、謎も多く、史実とは違う部分もあると思いますが、一緒に当時の武将の痕跡をたどってみませんか。

 

<馬加康胤の霊夢の伝承のある三代王神社>

 

日時: 2019年12月22日(日) 13時〜15時頃まで (12時半開場)

場所 : アミュゼ柏 会議室A

柏市柏6丁目2−22   ⇒ アクセス:柏駅東口より徒歩7分

講師 :当会より

費用 : 300円(資料代など)

主催:手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会 (会員募集中)

 

 

次回もまた「戦国実力派宣言」

  • 2019.08.07 Wednesday
  • 22:30

JUGEMテーマ:イベント情報

<設楽原合戦場跡の復元馬防柵>


有名な戦国武将については、長く間違った通説が伝えられ、実像とは異なるイメージが定着していたことが意外に多いです。 例えば、北条早雲の名前で知られる伊勢宗瑞は、昔は伊勢の素浪人とされていましたが、今では足利将軍家にも近い上級武士である幕府政所執事の伊勢氏の一族というのが分かっています。 豊臣秀吉も貧しい農民の子といわれていましたが、父親の木下弥右衛門は当時の農民としては名前が立派過ぎ、母親のおなかや親戚の加藤清正は刀鍛冶を兼ねた地侍出身です。 今いろいろなところで訂正されているように、秀吉も尾張の織田信秀に仕えた地侍の子というのが本当のところではないでしょうか。 後世にかなり歪められて伝えられ、江戸時代の軍記物などで面白おかしく脚色されたと思います。

それだけでなく、戦国時代の合戦についても、伝えられたものと実態が違っていると思われるものがいくつかあります。

例えば桶狭間合戦ですが、今川義元は上洛を目指して大軍を率いて桶狭間まで来たのでしょうか。 そして、織田信長は奇襲攻撃で油断していた今川勢を破ったのでしょうか。

 

『尾州桶狭間合戦』 歌川豊宣画

 

長篠合戦は武田騎馬軍団を織田・徳川の鉄砲隊が迎え撃って倒したのでしょうか。 そもそも、山国である甲斐を本国とする武田勢に騎馬軍団が存在したなど、本当でしょうか? そして3万ともいう大軍を率いてきた織田勢と現地を知り尽くした徳川勢が、たかだか1万5千あまりの武田勢を破って当たり前なのではありませんか? 設楽原の現地をみれば、騎馬軍団の突撃など後世の虚構であることが良く分かります。

桶狭間合戦や長篠合戦を例として、戦国武将の虚像と実像、戦国合戦の通説と実態など、探ってみたいと思います。

 

会場:アミュゼ柏 会議室B
  アクセス→柏駅東口より徒歩7分
日程:2019年8月25日(日) 12時半開場、13時〜15時
テーマ:戦国実力派宣言 〜戦国武将に関する通説と実像〜
講師:当会より
参加費:300円(資料代など)

歴楽講座「戦国実力派宣言」戦国下総の城と合戦・・・

  • 2019.07.14 Sunday
  • 20:25

JUGEMテーマ:お城

 

   

<上杉謙信を迎え撃った臼井城の戦い:上杉謙信臼井城城攻めの図(『成田名所図会』より)>

 

<臼井城跡から見た印旛沼>

 

「戦国実力派宣言」。 まるで森高千里さんの「非実力派宣言」をもじったようなネーミングですが、

 

 

下総地方の戦国時代なんて、何があるのという方に一言。 太田道灌とその配下が攻めて来たり、国府台で後北条氏と小弓公方、里見氏が戦ったり、色々あったのです。

戦国の房総といえば、里見氏を思い浮かべる方が多いと思いますが、臼井城の原胤貞が上杉謙信の軍勢を撃退したことは、余り知られていないかもしれません。

下総千葉氏、武蔵千葉氏、上杉氏、古河公方足利氏、小弓公方足利氏、後北条氏、里見氏と様々な勢力が、戦国時代に激突し、攻防を展開した下総。 特に鎌倉時代からの名門千葉氏に関わる戦国の実力派の人々について、考えてみたいと思います。

 

会場:アミュゼ柏 会議室C
  アクセス→JR柏駅東口より徒歩7分
日程:2019年7月28日(日) 12時半開場、13時〜15時
テーマ:戦国実力派宣言 〜戦国期下総地方の城と合戦〜
講師:当会より
参加費:300円(資料代など)

その他:お問い合わせは→メール:info☆matsugasakijo.net(☆を@にかえて下さい) 駐車場は会場に隣接していますが、有料です。

 

会誌「水辺の城」第3号 頒布中(神田 六一書房でも販売) → http://www.book61.co.jp/book.php/N79385
 

 

手賀沼沿岸の城、身近な城

  • 2018.03.31 Saturday
  • 21:02

JUGEMテーマ:お城

 

<松ヶ崎城跡の見学会>

 

千葉県の北西部は、近年都市化が進み、中世の城郭跡などの遺跡はかなりの部分が破壊されている。松ヶ崎城跡など、例外であり、よくぞ今まで500年もの間、残ってきたものだと思う。

(略)

船橋市には、15ほどの中世城郭があったとのことであるが、遺構が多少でも残っているのは夏見城跡、高根城跡、金杉城跡、八木ヶ谷城跡、小野田城跡くらいと少なく、また残存遺構も部分的なものに過ぎない。

その点、手賀沼沿岸の城跡は、破壊されたものもあるが、松ヶ崎城跡を含む一部の城跡はよく保存されている。中世城郭は、もともと中世以来の集落には大抵存在するもので、古墳や貝塚などと違って、日本中どこにでもある遺跡である。ただし、豊臣政権下での一国一城令により多くが破却された。それでも江戸時代以降も残ってきた城跡も多かったが、近代以降の耕地開発や、特に高度経済成長時の工業団地や住宅地などの開発により、いつの間にか、全国各地から多くの中世城郭跡が調査もされないまま消滅していったのである。

手賀沼沿岸地域の城は、手賀沼沿い、あるいは手賀沼に注ぐ水系沿いの台地上に殆どが分布し、「舟戸」「船戸」など「戸」のつく地名が城館のまわりに存在していることが多く、水上交通の拠点であった。

 

陸上交通も発達し、近世の水戸街道に近い道も存在した模様で、松戸方面〜篠籠田〜大堀川沿い〜我孫子方面へ通っていた。

松ヶ崎城も、そうした手賀沼沿岸地域の城の一つで、 手賀沼と近世の水戸街道の交点に近い交通の要衝であった。

去る2006年4月30日、有志3名で、柏市箕輪にある箕輪城跡を訪ねたことがある。これは戦国末期の技巧を凝らした城。現在、城跡西側には手賀沼病院が建っていて、主郭である第1郭の中央部分が駐車場となり、第4郭全部と第3郭の西よりの一部が病院の建物などが建って破壊されているものの、第1郭周辺の二重堀と腰郭、第2郭全体と第3郭の東側が残っていた。

城域は手賀沼に突き出した台地上にあって、東西約280m、南北180mと東西に広がり、4郭程存在したうち、ほぼ半分の遺構が現存していた*。*2006年当時

 

<根戸城跡のCG画像>

 

松ヶ崎城跡に近い根戸城跡は、大部分の遺構が残されている。松ヶ崎城が15世紀後半から16世紀初め、つまり足利将軍家の威光が衰え、戦国初期の北条早雲などが活躍したころの城であるのに対して、根戸城は土塁や堀の構造からみて、戦国中後期の特徴を備えている。

この根戸城跡も手賀にある手賀城跡、さらに箕輪城跡も、城跡の周辺に「舟戸」あるいは「船戸」などと呼ばれる地名が残り、船着場があったとされる。実は松ヶ崎城も船着場があったという伝承があるが、こうした水運を背景に出来たと思われる城を「水辺の城」と呼んでいる。

今では内陸部と思われている本佐倉城も、かつては印旛沼(印旛浦)の水運を背景とした城であった。それは、下総の守護大名である馬加系千葉氏の居城であったが、古河公方足利成氏のいた古河と行き来をしたり、各地から運ばれる物資を集積するのに立地がよいために、本佐倉の地に築かれたという。

手賀沼から少しはずれるが、手賀沼に注ぐ大津川、金山落しなどの河畔にも増尾城跡など城跡は多い。

 

<増尾城跡の土塁>

 

面白いのは、川の両岸に対抗するようにある城跡で、例えば大津川下流では大井追花城跡と戸張城跡。この戸張には、相馬氏一族の戸張氏がいたが、古河公方側ではなく関東管領上杉氏側の勢力であった。この戸張城主と向岸の大井追花城主が長年の敵同士で、合戦の時に城主同士が組み合い、どちらかが相手の鼻を食いちぎったという伝承が残されている。

金山落しでは、柏市藤ヶ谷の藤ヶ谷城に拠った相馬氏と対岸の富塚城の勢力が合戦し、川を挟んで互いに矢を射たところ、川のなかに矢が落ちて山のようになり、その場所を矢の橋と呼んだという伝承がある。

こうした話は、あくまで伝説であるが、領地境で戦国時代によくあった土豪の小競り合いが口碑となって伝わったものではないだろうか。

そういう伝承も踏まえて、身近な城跡めぐりをしてみると面白いかもしれない。

 

(2010年8月の当会会報より)

平成29年度第8回 歴楽講座は「戦国合戦の謎」

  • 2018.01.16 Tuesday
  • 22:59

JUGEMテーマ:歴史

 

 

  <桶狭間古戦場祭りの様子>       <設楽原合戦場の模擬馬防柵>

 

群雄割拠した戦国時代、その合戦の様子は今も様々に伝えられています。しかし、桶狭間合戦、長篠合戦も伝えられているのとは、だいぶ実態は違うらしいことが、分かってきました。一方、東葛地方でも、享徳の乱の時代から、境根原合戦などありましたが、それらの戦いも、まだ謎の部分があります。一緒に考えてみませんか。

 ・会場:アミュゼ柏 会議室B (
柏市柏6丁目2−22 )
   アクセス→柏駅東口より徒歩8分
 ・日程:2018年1月28日(日) 12時半から受付、13時より
 ・テーマ:「戦国合戦の謎 〜桶狭間、長篠、そして東葛〜」
 ・講師:当会より
 ・参加費:会員:100円、一般:300円(資料代など)
 ・その他:申込不要。 駐車場は会場に隣接していますが、有料です。

 

<境根原古戦場跡>

 

横浜開催のお城EXPOで

  • 2016.12.26 Monday
  • 07:20

クリスマスで世間が賑やかなころ、ここ横浜もクリスマスツリーが華やかに飾られておりました。そんな中、お城EXPOに参加すべく、みなとみらいに向かいました。会場のパシフィコ横浜はエントランス部分はさほど人がいませんでしたが、展示のある3階にあがったところ、大勢の人出で、盛況な様子。

 

 

 

<みなとみらいはクリスマスムード>

 

ひこにゃんではなく、島根県のゆるキャラしまねっこがお出迎え。他にも観光の宣伝のようなブースが多数ありました。

 

<お城EXPO松江のコーナーで>

 

私が見たかったのは、横浜の中世城郭の展示です。烏帽子に鎧姿の方が説明していましたが、かなり専門的でした。研究者?

小机城址まつりとか篠原城の説明の展示もあり、他のブースと比べれば地味ですが、こういう活動は同じ立場の身としてよく分かります。

 

<横浜の中世城郭の展示コーナー>

 

講演会にも参加し、そこで城郭ライターの萩原さちこさんにもお会いしました。 少し用事があったので、丁度良かったです。萩原さんはシンポジウムのコーディネーターとか、対談形式の講演とか大活躍です。

井の中の蛙となってはいけません。全国には文化財保護のために活動している、同じ考えの方々が沢山いますし、時々刺激を受けるのもいいかもしれません。

 

柏に秘められた歴史を訪ねて

  • 2016.08.26 Friday
  • 06:13

 

<柏市高柳の善龍寺>

 

<徳本上人念仏塔(柏市高柳)>

 

以前、柏市の史跡めぐりのDVDを作成しましたが、以下はその冒頭部分です。

柏市の史跡めぐりは、高柳から出発し、大井、布施(布施弁天、あけぼの山)、根戸、花野井、松ヶ崎、柏の葉(旧陸軍飛行場跡)、豊四季とまわりましたが、1日では撮影できないので、3日かかって撮影し、動画の編集をしました。

 

部分的にはYouTubeにアップしましたが、量が多く、アップしたのはほんの僅かです。

 

 

なお、高柳と大井、豊四季の部分と、それ以外の部分では撮影者が違います。

上の高柳でのオープニング部分はA氏、下の根戸の「高射砲第二連隊の兵営跡を訪ねて」についてはB氏。 違いが分かりますか。 B氏が撮った方が、カメラワークで被写体に対し寄ったり、引いたりの変化があると思います。

 

 

今度9月25日(日)の13時30分から、柏中央公民館で「柏市藤ヶ谷と周辺の歴史」という講座を行いますが、上記の撮影では藤ヶ谷の動画を撮っておらず、藤ヶ谷の鮮魚街道の常夜灯の写真が挿入されているだけです。 藤ヶ谷あたりも面白いと思います。

 

 

 

船橋市のQRコード付きの遺跡案内看板

  • 2016.08.14 Sunday
  • 19:37

坪井城跡

 

船橋市坪井町の何の変哲もない畑、これは実は城跡です。坪井城といい、遺構は残っていません。

その案内板は、少し離れた公園の中にあります。

 

 

一体どこに? 小さい公園なので、すぐ分かります。上の写真の右奥にあるのが分かると思います。

 

 

この看板、普通の案内板と少し違うのですが、何が違うかといえば、船橋市教育委員会の文字の右横を見れば。。。

 QRコード、いわゆる二次元バーコードが、印字されています。左は、その部分を拡大したものです。

 この場合、QRコードには、URLの情報が入っています。
 

 

これをスマホで読んでみましょう。スマホに和服の女性の顔が映っていますが、ただの心霊写真(?)ですので、気にしないで下さい。

 

 

勿論、スマホには予めQRコードを読み取ることのできるアプリがインストールされていなければなりません。私は、フリーのアプリをインストールしました。では、読み取るアプリを起動し、読み取ってみます。

 

 

QRコードを認識すると、赤い枠で囲まれて、すぐに次の画面になります。その次の画面が以下です。

読み取り内容が、上の方にURLとして表示され、そのURLで起動し、WEBの画面を表示するためのアプリを選べと言ってきます。

今回、Safariを選びました。日光の反射で見づらいですが、あしからず。

 

 

そうすると、実際はワンクッションあるのですが、以下の画面が表示されました。

 

 

案内板の内容とだいぶ重複しており、遺跡の図が入っただけといえば、それまでですが、でもこんな仕組みは今までなかったと思います。いっそ音声や動画もでるようになれば、もっと良いかも。

 

問題は、この看板がどこにあるのかが、今ひとつ分かりにくく、船橋市のHPで調べ、住所を確認し、さらにGoogleマップでストリートビューをかけるなどして、道順を調べておかないとたどりつけないということ。

もっと分かり易く遺跡そのものと案内板の位置がわかるものがあれば、良いのですが。

 

ただ、船橋市は看板があるだけでもいいです。柏市など中馬場遺跡のような主要な遺跡の看板が立っていないのですから。

 

 

千葉氏を継いだ岩橋輔胤と平山城

  • 2015.12.23 Wednesday
  • 22:06

<千葉館があったという千葉地裁周辺>

享徳3 年(1454)より文明14年(1482)まで続いた関東の戦乱、いわゆる享徳の大乱は、鎌倉公方のちの古河公方足利氏VS関東管領上杉氏の対立を基軸としていましたが、それは各陣営の関東の諸豪族の内部分裂も引き起こしました。
下総の千葉氏は、享徳の大乱の前までは鎌倉公方・古河公方足利氏の側に大方ついていましたが、その前は管領上杉氏についたりしていました。千葉胤直の子で千葉氏宗家を継いだ胤将が古河公方支持だったのが享徳3 年(1454)6月に若くして亡くなると、そのあとを継いだ弟の胤宣はまだ9歳で、胤直が後見しました。この直後に享徳の大乱の時代に突入し、千葉氏宗家の胤直・胤宣は関東管領上杉氏の側につきます。
しかし、従来古河公方を支持してきた千葉氏家中からは、胤直の叔父の馬加康胤や重臣原胤房らが異を唱え、ついに康正元年(1455)に馬加康胤が挙兵、原胤房とともに従来の宗家を攻撃します。千葉館にいたと思われる胤直・胤宣は同年8月千田庄の嶋城、多古城に逃げ、自害。翌月胤直の弟・胤賢も小堤(おんずみ/横芝光町)で自害、千葉氏宗家は滅亡。ちなみに今まで一般に千葉城という亥鼻城が千葉氏歴代の居城とされてきましたが、室町時代まで千葉氏当主は千葉館などの居館にいて、亥鼻城は千葉館の防衛のために室町時代中期位に築城されたらしいことが最近分かっています。


<亥鼻城の主郭>

胤賢の子・実胤・自胤(これたね)らは、曽谷氏らの支援で、市川城に籠り合戦するも武蔵へ敗走(武蔵千葉氏となる)。
これで、下総千葉氏の事実上の当主は馬加康胤ということになりますが、千葉氏の一族で美濃の豪族東常縁が室町将軍家の許可を得て、馬加康胤討伐に向かいます。康正元年(1455)には馬加城は落城。なお、馬加康胤と一緒に戦っていた原胤房は東常縁の攻撃の前に、同年11月に敗走してしまいます。
康正2年(1456)1月、千葉実胤・自胤は市川城に籠り、古河公方を迎撃(市川合戦)、古河公方方勝利、千葉実胤・自胤ら武蔵へ。しかし、東常縁やその配下で土岐氏の浜春利らが、馬加康胤・胤持父子の勢力を攻撃、同年(1456)6月、馬加胤持(当時22歳か)戦死してしまいます。しかし、馬加康胤は岩橋輔胤とともに、関東管領・将軍家の側と戦い続けます。
同年10月25日、岩橋輔胤は、市川の真間山弘法寺に安堵状を発給。恐らく岩橋輔胤は市川合戦に参加し、合戦後も市川にとどまっていたのでしょう。またこの頃「東野州常縁と馬加陸奥守並岩橋輔胤、於所々合戦止隙なし」(鎌倉大草子)ということで、どうやら馬加康胤とともに戦った岩橋輔胤が、康胤の後継者となったようです。康胤は康正2年(1456)11月1日に、下総の南、今の市原市と千葉市を流れる村田川付近の戦いで戦死し、その時59歳(83歳という説もあり)だったといいます。市原市八幡の無量寺に馬加康胤・胤持父子の墓がありますが、康胤の首塚というのも、幕張の大須賀山砦という馬加城近くの台地にあります。首塚には寛永14年(1637)在銘の安山岩製の五輪塔が、供養塔として建てられております。しかし、「寛永十四年丁丑天 二月十一日建立朝雅宥光宥得二親」とあり、朝雅という僧?が両親の供養のために建てたようで、後世に別の五輪塔を持ってきたようです。
馬加城は今は跡形もなく、どこにあったのかも分からないくらいで、伝承地は幕張のマンションと畑となっているのですが、近くに三代王神社があり、そこへ馬加康胤が奥さんの安産祈願をしたという伝説があり、それを由来として三山の七年祭りが今もさかんに行われています。船橋市、習志野市、千葉市、八千代市の4市の九つの神社が参加する壮大な祭りで、馬加康胤の奥さんの安産祈願が始まりだという解説が、船橋市、習志野市の公式HPその他広くなされ、意外に地元では馬加康胤はフレンドリーな存在になっています。


<三代王神社の鳥居>

ところで輔胤は康胤の存命中に真間山弘法寺に安堵状をだしていることになりますので、それは康胤の承認はあったものと考えられます。岩橋輔胤は馬加康胤の庶長子とも弟ともいいますが、はっきりしません。ただ、馬加康胤と共に戦い、康胤没後も一貫して古河公方方で、かなりむきになって戦い続けています。そうすると、やはり康胤の身内かなと思います。馬加と岩橋では名字が違うじゃないかという向きがありますが、領地の地名を名字として名乗る習慣から当時は名字が違う親子や兄弟など山ほどいましたので。
岩橋輔胤は千葉大系図では馬加康胤の庶長子、松羅館本千葉系図では馬加康胤の弟を康胤が養子にしたとあります。系図以外に馬加系と考えられる根拠としては、
・馬加康胤と共に東常縁ら足利将軍家/関東管領の勢力と戦っている(「鎌倉大草紙」)
・馬加康胤の生前、真間山弘法寺に安堵状を発給、康胤死後も一貫して古河公方を支持して戦った
ということがあげられます。
「千学集抄」など、一説には千葉氏一族の馬場胤依の子とされます。これは、千葉氏胤の子馬場胤重の子孫で岩橋(現酒々井町)周辺に勢力があったという馬場氏の出としたものです。しかし、「千学集抄」は千葉妙見宮の関連文書で江戸初期に成立、千葉氏任官運動で「悪名」高い馬加の出というのを避け、意図的に馬場氏系としたものかもしれません。あるいは岩橋輔胤は馬場氏の姻戚か、単に馬場氏の後で岩橋を領したものか、あるいは母方が馬場氏ということも考えられます。戦国後期の千葉親胤家臣に馬場胤平の名がみえ、成田市の寺台城城主馬場氏の伝承がありますが、原氏などと比べ有力といえず、馬場氏が馬加氏の跡を継承したとは考えにくいと思います。

 その馬加康胤を祖とし、宗家を乗っ取ったとして「悪名」高い、馬加系千葉氏ですが、馬加城が落とされ千葉館に行ったらしく、さらに東常縁らに攻められて 千葉館を放棄、その後文明年間に本佐倉城を築くまで拠ったと思われるのが、前回述べた平山城です(左は陸軍参謀部迅速測図をベースにした 歴史的農業環境閲覧システムからの図です)。岩橋輔胤の子、千葉孝胤の代には本佐倉城にいたことは間違いないのですが、それまでの馬加系千葉氏の居城はよく分からないとされてきました(もっとも後述するように文書にははっきり書かれていましたが)。


「屋方様(千葉孝胤)千葉より平山へ御越し、又長崎へ移らせられ、それより佐倉へ移らせらる。文明十六年甲辰六月三日、佐倉の地を取らせらる」(「千学集抄」)  *文明16年は1483年、康正元年(1455)の28年後
「輔胤平山を取たつ。孝胤迄二代御座也。夫より長崎へ移る。其の後佐倉ヘ移り給ふ」(「妙見実録千集記」)と、平山城が本佐倉城を築き、居城とするまでの馬加系千葉氏の拠点であったと、文書は書いています。

上記で長崎は場所不明、佐倉市の寺崎と言われてきましたし、寺崎の密蔵院の付近には立派な石碑まで建っていますが、信じがたいものがあります。一説にいう長峰とすれば、千葉市若葉区大宮町で、城郭の多い場所でもあり、どちらかといえばそちらの方が合っているかもしれません。


<長谷部の集落を行く>

さて、平山城ですが、千葉市緑区平山町の平山十字路の南、長谷部入口のバス停付近で分岐する道沿いをまっすぐ行き、しばらく歩いた後、住宅地を右側に進むと主郭部があるということですが、実際歩いてみると、途中谷のように低くなっており、また長く歩くということで、多少分かり難いです。主郭近くは古い集落になっていて、もしかして宅地のなかに城跡があるかと、うろうろしていたところ、たまたま落ち葉をはいていた年配の男性に妙見神社の場所を聞いて、主郭部分にたどり着きました。
主郭部は東西150m近くありそうな広い場所で、妙見神社以外は林と畑になっています。北側が台地続きとなっていて、南、東、西が低地に面した舌状台地の先端にあり、南側には狭い谷津がありますが、千葉氏の本拠とした千葉市中心街から遠く、今も周辺の道は狭いですが、台地と低地の入り組んだおよそ大軍が攻めにくい場所にあります。


<平山城跡に建つ妙見神社〜社殿の裏にも土塁が残る>


<台地中段の腰郭らしき平場>

なお、主郭付近には土塁の残欠がいくつかあり、特に台地西側端の土塁は内側の高さが2mほどですが、基底部は8mはありそうな大きな土塁で、台地中腹からみると切り立った感じがします。また主郭部のある台地の西側から台地下に降りる道沿いに腰郭らしき平場がみえ、その道も竪堀を拡幅した可能性があると思いました。
この平山城を拠点としながら、岩橋輔胤はその名字の地である岩橋に近い、本佐倉に築城のプランを練り、ひそかに城普請に着手していたのでしょうか。
城跡の北西約900mの地点にある平山お願い薬師・東光院は七仏薬師を祀っており、七仏薬師は馬加系千葉氏が信仰した妙見の本地でもあります。しかし、平山城跡も含めて案内板一つないのは、いったいどういうことでしょうか。


<平山お願い薬師の石段>
 


 

馬加系千葉氏が拠った城

  • 2015.12.08 Tuesday
  • 22:53

<本佐倉城跡(奥ノ山)>

千葉氏といえば、源頼朝を庇護した千葉常胤が有名ですが、その子孫は下総国守護として連綿として戦国時代まで続きました。連綿といっても、実際は一族の分裂、家中の抗争の連続で、戦国時代の途中で勢いが衰え、最終的には小田原北条氏の傘下でかろうじて存続するまでに弱体化します。
鎌倉時代末期に近い頃、元寇の対策で九州に鎌倉の御家人が集められたとき、千葉氏もまた千葉頼胤がこれに応じて九州に赴き、元軍との戦いで傷を負い死去。子の宗胤も九州に下向、下総に帰ることができなくなり、下総は家臣に擁立された宗胤の弟胤宗がおさめるようになり、かくて宗胤の子孫の九州千葉氏と下総に残った胤宗の子孫たちと分立しました。南北朝期には、九州千葉氏は北朝、下総本国の千葉氏は当初南朝で戦いましたが、これが大きな第一回目の分裂。
そして、室町時代、元々鎌倉府の長官であった古河公方と関東管領上杉氏との対立を基軸とする享徳の大乱(享徳3年(1454)〜文明14年(1482)まで続いた関東の戦乱)がおきると、千葉氏は内部分裂します。当初古河公方方であった千葉宗家は、千葉胤直の子胤将がなくなった後、胤将の弟胤宣の代になると一転して管領上杉氏につきました。それに対し、古河公方成氏方には千葉氏一族の馬加康胤、原胤房がついて、家中が分裂したのが、二回目の分裂です。

康正元年(1455)に馬加康胤らが従来の宗家であった千葉胤直・胤宣を追い詰め、胤直・胤宣は千田庄の嶋城、多古城に逃げ、自害。胤直の弟・胤賢も小堤(おんずみ/横芝光町)で自害、従来の千葉氏宗家は滅亡。
胤賢の子・実胤・自胤(これたね)らは、曽谷氏らの支援で、市川城に籠り合戦するも武蔵へ敗走、以降かれらは武蔵千葉氏と称されました。


<市川の真間山弘法寺>

その間、将軍家から馬加康胤追討の命をうけた、美濃の東常縁らが、下総の千葉氏・原氏と戦い、その中で馬加康胤の子胤持が康正2年6月に戦死。康胤自身も同年11月に戦死したようです。しかし、それで終わらなかった。康胤にはもう一人身内がおり、それが岩橋輔胤で、その子孫が下総千葉氏の跡を継いでいきます。岩橋輔胤は康胤の子とも、弟とも、養子ともいいますが、近親者であったようです。
岩橋輔胤は、応永28年(1421)生- 明応元(1492)年2月15日没とすると、康胤が亡くなった康正2年(1456)時点で35歳。
康胤は59歳で没したとされるので、康胤とは24歳年下、康胤と同じ年に23歳でなくなったという胤持より12歳年上になります。
年齢からすると康胤の庶長子、または応永28年(1421)には康胤の父千葉満胤は隠居していましたが生存しているので、輔胤は康胤の弟でもおかしくない。「千学集抄」などでは、岩橋輔胤は今の成田市に本拠があったらしい千葉氏一族の馬場胤依の子となっています。しかし、岩橋輔胤は馬加康胤の存命中の康正2年(1456)10月に、市川の真間山弘法寺に安堵状を「平輔胤」として発給しており、その時点で康胤の後継者となっていたと考えられ、その継承をめぐって紛争も起きていないようですので、やはり岩橋輔胤は馬加康胤の近親者と考えられます。

馬加系千葉氏の享徳の大乱中の居城は、従来馬加康胤の頃にいきなり千葉城から本佐倉城とされていましたが、千葉城といっても千葉地裁の場所にあった千葉館かもしれず、また本佐倉城を築いたのは文明年間頃で岩橋輔胤か千葉孝胤が築城者、本佐倉城が完成するまでは千葉市緑区にあった平山城にいたらしいことが分かってきました。


<平山城跡の北西約900mにある平山お願い薬師・東光院>

馬加系千葉氏の居城の変遷をまとめますと、以下のようになります。
◇馬加康胤 馬加城(千葉市花見川区幕張)→千葉城(館)→平山城(千葉市緑区平山町)【伝承】

◇馬加胤持 千葉城(館)→平山城(千葉市緑区平山町)【伝承】

◇岩橋輔胤 下岩橋城?→平山城【伝承】→本佐倉城?

◇千葉孝胤 本佐倉城


この平山城跡は、千葉県教育委員会の発行した「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書機廚砲茲譴弌∪虱媚堽亢菠浸劃の標高40m、比高20mの台地上にあって、約340m×170mの広さがあるとのことですが、上の空中写真で分かるように舌状台地の先端部分にあります。実際に行ってみると、平山十字路を南に下り、長谷部入口のバス停付近で分岐する道をしばらく歩くと台地の縁辺に出て、いったん下りまた登るという調子で進めば、主郭部分や周辺に土塁が残存しています。長谷部入口から林の中を歩くような雰囲気ですが、古い大きな家があり、城跡の近くにも家が建ち並んでいます。宅地や畑など、城跡は私有地ですので、やたら入れませんが、結構な広がりを感じます。しかし、道が狭く自動車は対向車がくるとすれ違えませんし、第一置く場所がありません。長谷部の集落からは歩いていくことをお勧めします。

 

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