横浜開催のお城EXPOで

  • 2016.12.26 Monday
  • 07:20

クリスマスで世間が賑やかなころ、ここ横浜もクリスマスツリーが華やかに飾られておりました。そんな中、お城EXPOに参加すべく、みなとみらいに向かいました。会場のパシフィコ横浜はエントランス部分はさほど人がいませんでしたが、展示のある3階にあがったところ、大勢の人出で、盛況な様子。

 

 

 

<みなとみらいはクリスマスムード>

 

ひこにゃんではなく、島根県のゆるキャラしまねっこがお出迎え。他にも観光の宣伝のようなブースが多数ありました。

 

<お城EXPO松江のコーナーで>

 

私が見たかったのは、横浜の中世城郭の展示です。烏帽子に鎧姿の方が説明していましたが、かなり専門的でした。研究者?

小机城址まつりとか篠原城の説明の展示もあり、他のブースと比べれば地味ですが、こういう活動は同じ立場の身としてよく分かります。

 

<横浜の中世城郭の展示コーナー>

 

講演会にも参加し、そこで城郭ライターの萩原さちこさんにもお会いしました。 少し用事があったので、丁度良かったです。萩原さんはシンポジウムのコーディネーターとか、対談形式の講演とか大活躍です。

井の中の蛙となってはいけません。全国には文化財保護のために活動している、同じ考えの方々が沢山いますし、時々刺激を受けるのもいいかもしれません。

 

柏に秘められた歴史を訪ねて

  • 2016.08.26 Friday
  • 06:13

 

<柏市高柳の善龍寺>

 

<徳本上人念仏塔(柏市高柳)>

 

以前、柏市の史跡めぐりのDVDを作成しましたが、以下はその冒頭部分です。

柏市の史跡めぐりは、高柳から出発し、大井、布施(布施弁天、あけぼの山)、根戸、花野井、松ヶ崎、柏の葉(旧陸軍飛行場跡)、豊四季とまわりましたが、1日では撮影できないので、3日かかって撮影し、動画の編集をしました。

 

部分的にはYouTubeにアップしましたが、量が多く、アップしたのはほんの僅かです。

 

 

なお、高柳と大井、豊四季の部分と、それ以外の部分では撮影者が違います。

上の高柳でのオープニング部分はA氏、下の根戸の「高射砲第二連隊の兵営跡を訪ねて」についてはB氏。 違いが分かりますか。 B氏が撮った方が、カメラワークで被写体に対し寄ったり、引いたりの変化があると思います。

 

 

今度9月25日(日)の13時30分から、柏中央公民館で「柏市藤ヶ谷と周辺の歴史」という講座を行いますが、上記の撮影では藤ヶ谷の動画を撮っておらず、藤ヶ谷の鮮魚街道の常夜灯の写真が挿入されているだけです。 藤ヶ谷あたりも面白いと思います。

 

 

 

船橋市のQRコード付きの遺跡案内看板

  • 2016.08.14 Sunday
  • 19:37

坪井城跡

 

船橋市坪井町の何の変哲もない畑、これは実は城跡です。坪井城といい、遺構は残っていません。

その案内板は、少し離れた公園の中にあります。

 

 

一体どこに? 小さい公園なので、すぐ分かります。上の写真の右奥にあるのが分かると思います。

 

 

この看板、普通の案内板と少し違うのですが、何が違うかといえば、船橋市教育委員会の文字の右横を見れば。。。

 QRコード、いわゆる二次元バーコードが、印字されています。左は、その部分を拡大したものです。

 この場合、QRコードには、URLの情報が入っています。
 

 

これをスマホで読んでみましょう。スマホに和服の女性の顔が映っていますが、ただの心霊写真(?)ですので、気にしないで下さい。

 

 

勿論、スマホには予めQRコードを読み取ることのできるアプリがインストールされていなければなりません。私は、フリーのアプリをインストールしました。では、読み取るアプリを起動し、読み取ってみます。

 

 

QRコードを認識すると、赤い枠で囲まれて、すぐに次の画面になります。その次の画面が以下です。

読み取り内容が、上の方にURLとして表示され、そのURLで起動し、WEBの画面を表示するためのアプリを選べと言ってきます。

今回、Safariを選びました。日光の反射で見づらいですが、あしからず。

 

 

そうすると、実際はワンクッションあるのですが、以下の画面が表示されました。

 

 

案内板の内容とだいぶ重複しており、遺跡の図が入っただけといえば、それまでですが、でもこんな仕組みは今までなかったと思います。いっそ音声や動画もでるようになれば、もっと良いかも。

 

問題は、この看板がどこにあるのかが、今ひとつ分かりにくく、船橋市のHPで調べ、住所を確認し、さらにGoogleマップでストリートビューをかけるなどして、道順を調べておかないとたどりつけないということ。

もっと分かり易く遺跡そのものと案内板の位置がわかるものがあれば、良いのですが。

 

ただ、船橋市は看板があるだけでもいいです。柏市など中馬場遺跡のような主要な遺跡の看板が立っていないのですから。

 

 

千葉氏を継いだ岩橋輔胤と平山城

  • 2015.12.23 Wednesday
  • 22:06

<千葉館があったという千葉地裁周辺>

享徳3 年(1454)より文明14年(1482)まで続いた関東の戦乱、いわゆる享徳の大乱は、鎌倉公方のちの古河公方足利氏VS関東管領上杉氏の対立を基軸としていましたが、それは各陣営の関東の諸豪族の内部分裂も引き起こしました。
下総の千葉氏は、享徳の大乱の前までは鎌倉公方・古河公方足利氏の側に大方ついていましたが、その前は管領上杉氏についたりしていました。千葉胤直の子で千葉氏宗家を継いだ胤将が古河公方支持だったのが享徳3 年(1454)6月に若くして亡くなると、そのあとを継いだ弟の胤宣はまだ9歳で、胤直が後見しました。この直後に享徳の大乱の時代に突入し、千葉氏宗家の胤直・胤宣は関東管領上杉氏の側につきます。
しかし、従来古河公方を支持してきた千葉氏家中からは、胤直の叔父の馬加康胤や重臣原胤房らが異を唱え、ついに康正元年(1455)に馬加康胤が挙兵、原胤房とともに従来の宗家を攻撃します。千葉館にいたと思われる胤直・胤宣は同年8月千田庄の嶋城、多古城に逃げ、自害。翌月胤直の弟・胤賢も小堤(おんずみ/横芝光町)で自害、千葉氏宗家は滅亡。ちなみに今まで一般に千葉城という亥鼻城が千葉氏歴代の居城とされてきましたが、室町時代まで千葉氏当主は千葉館などの居館にいて、亥鼻城は千葉館の防衛のために室町時代中期位に築城されたらしいことが最近分かっています。


<亥鼻城の主郭>

胤賢の子・実胤・自胤(これたね)らは、曽谷氏らの支援で、市川城に籠り合戦するも武蔵へ敗走(武蔵千葉氏となる)。
これで、下総千葉氏の事実上の当主は馬加康胤ということになりますが、千葉氏の一族で美濃の豪族東常縁が室町将軍家の許可を得て、馬加康胤討伐に向かいます。康正元年(1455)には馬加城は落城。なお、馬加康胤と一緒に戦っていた原胤房は東常縁の攻撃の前に、同年11月に敗走してしまいます。
康正2年(1456)1月、千葉実胤・自胤は市川城に籠り、古河公方を迎撃(市川合戦)、古河公方方勝利、千葉実胤・自胤ら武蔵へ。しかし、東常縁やその配下で土岐氏の浜春利らが、馬加康胤・胤持父子の勢力を攻撃、同年(1456)6月、馬加胤持(当時22歳か)戦死してしまいます。しかし、馬加康胤は岩橋輔胤とともに、関東管領・将軍家の側と戦い続けます。
同年10月25日、岩橋輔胤は、市川の真間山弘法寺に安堵状を発給。恐らく岩橋輔胤は市川合戦に参加し、合戦後も市川にとどまっていたのでしょう。またこの頃「東野州常縁と馬加陸奥守並岩橋輔胤、於所々合戦止隙なし」(鎌倉大草子)ということで、どうやら馬加康胤とともに戦った岩橋輔胤が、康胤の後継者となったようです。康胤は康正2年(1456)11月1日に、下総の南、今の市原市と千葉市を流れる村田川付近の戦いで戦死し、その時59歳(83歳という説もあり)だったといいます。市原市八幡の無量寺に馬加康胤・胤持父子の墓がありますが、康胤の首塚というのも、幕張の大須賀山砦という馬加城近くの台地にあります。首塚には寛永14年(1637)在銘の安山岩製の五輪塔が、供養塔として建てられております。しかし、「寛永十四年丁丑天 二月十一日建立朝雅宥光宥得二親」とあり、朝雅という僧?が両親の供養のために建てたようで、後世に別の五輪塔を持ってきたようです。
馬加城は今は跡形もなく、どこにあったのかも分からないくらいで、伝承地は幕張のマンションと畑となっているのですが、近くに三代王神社があり、そこへ馬加康胤が奥さんの安産祈願をしたという伝説があり、それを由来として三山の七年祭りが今もさかんに行われています。船橋市、習志野市、千葉市、八千代市の4市の九つの神社が参加する壮大な祭りで、馬加康胤の奥さんの安産祈願が始まりだという解説が、船橋市、習志野市の公式HPその他広くなされ、意外に地元では馬加康胤はフレンドリーな存在になっています。


<三代王神社の鳥居>

ところで輔胤は康胤の存命中に真間山弘法寺に安堵状をだしていることになりますので、それは康胤の承認はあったものと考えられます。岩橋輔胤は馬加康胤の庶長子とも弟ともいいますが、はっきりしません。ただ、馬加康胤と共に戦い、康胤没後も一貫して古河公方方で、かなりむきになって戦い続けています。そうすると、やはり康胤の身内かなと思います。馬加と岩橋では名字が違うじゃないかという向きがありますが、領地の地名を名字として名乗る習慣から当時は名字が違う親子や兄弟など山ほどいましたので。
岩橋輔胤は千葉大系図では馬加康胤の庶長子、松羅館本千葉系図では馬加康胤の弟を康胤が養子にしたとあります。系図以外に馬加系と考えられる根拠としては、
・馬加康胤と共に東常縁ら足利将軍家/関東管領の勢力と戦っている(「鎌倉大草紙」)
・馬加康胤の生前、真間山弘法寺に安堵状を発給、康胤死後も一貫して古河公方を支持して戦った
ということがあげられます。
「千学集抄」など、一説には千葉氏一族の馬場胤依の子とされます。これは、千葉氏胤の子馬場胤重の子孫で岩橋(現酒々井町)周辺に勢力があったという馬場氏の出としたものです。しかし、「千学集抄」は千葉妙見宮の関連文書で江戸初期に成立、千葉氏任官運動で「悪名」高い馬加の出というのを避け、意図的に馬場氏系としたものかもしれません。あるいは岩橋輔胤は馬場氏の姻戚か、単に馬場氏の後で岩橋を領したものか、あるいは母方が馬場氏ということも考えられます。戦国後期の千葉親胤家臣に馬場胤平の名がみえ、成田市の寺台城城主馬場氏の伝承がありますが、原氏などと比べ有力といえず、馬場氏が馬加氏の跡を継承したとは考えにくいと思います。

 その馬加康胤を祖とし、宗家を乗っ取ったとして「悪名」高い、馬加系千葉氏ですが、馬加城が落とされ千葉館に行ったらしく、さらに東常縁らに攻められて 千葉館を放棄、その後文明年間に本佐倉城を築くまで拠ったと思われるのが、前回述べた平山城です(左は陸軍参謀部迅速測図をベースにした 歴史的農業環境閲覧システムからの図です)。岩橋輔胤の子、千葉孝胤の代には本佐倉城にいたことは間違いないのですが、それまでの馬加系千葉氏の居城はよく分からないとされてきました(もっとも後述するように文書にははっきり書かれていましたが)。


「屋方様(千葉孝胤)千葉より平山へ御越し、又長崎へ移らせられ、それより佐倉へ移らせらる。文明十六年甲辰六月三日、佐倉の地を取らせらる」(「千学集抄」)  *文明16年は1483年、康正元年(1455)の28年後
「輔胤平山を取たつ。孝胤迄二代御座也。夫より長崎へ移る。其の後佐倉ヘ移り給ふ」(「妙見実録千集記」)と、平山城が本佐倉城を築き、居城とするまでの馬加系千葉氏の拠点であったと、文書は書いています。

上記で長崎は場所不明、佐倉市の寺崎と言われてきましたし、寺崎の密蔵院の付近には立派な石碑まで建っていますが、信じがたいものがあります。一説にいう長峰とすれば、千葉市若葉区大宮町で、城郭の多い場所でもあり、どちらかといえばそちらの方が合っているかもしれません。


<長谷部の集落を行く>

さて、平山城ですが、千葉市緑区平山町の平山十字路の南、長谷部入口のバス停付近で分岐する道沿いをまっすぐ行き、しばらく歩いた後、住宅地を右側に進むと主郭部があるということですが、実際歩いてみると、途中谷のように低くなっており、また長く歩くということで、多少分かり難いです。主郭近くは古い集落になっていて、もしかして宅地のなかに城跡があるかと、うろうろしていたところ、たまたま落ち葉をはいていた年配の男性に妙見神社の場所を聞いて、主郭部分にたどり着きました。
主郭部は東西150m近くありそうな広い場所で、妙見神社以外は林と畑になっています。北側が台地続きとなっていて、南、東、西が低地に面した舌状台地の先端にあり、南側には狭い谷津がありますが、千葉氏の本拠とした千葉市中心街から遠く、今も周辺の道は狭いですが、台地と低地の入り組んだおよそ大軍が攻めにくい場所にあります。


<平山城跡に建つ妙見神社〜社殿の裏にも土塁が残る>


<台地中段の腰郭らしき平場>

なお、主郭付近には土塁の残欠がいくつかあり、特に台地西側端の土塁は内側の高さが2mほどですが、基底部は8mはありそうな大きな土塁で、台地中腹からみると切り立った感じがします。また主郭部のある台地の西側から台地下に降りる道沿いに腰郭らしき平場がみえ、その道も竪堀を拡幅した可能性があると思いました。
この平山城を拠点としながら、岩橋輔胤はその名字の地である岩橋に近い、本佐倉に築城のプランを練り、ひそかに城普請に着手していたのでしょうか。
城跡の北西約900mの地点にある平山お願い薬師・東光院は七仏薬師を祀っており、七仏薬師は馬加系千葉氏が信仰した妙見の本地でもあります。しかし、平山城跡も含めて案内板一つないのは、いったいどういうことでしょうか。


<平山お願い薬師の石段>
 


 

馬加系千葉氏が拠った城

  • 2015.12.08 Tuesday
  • 22:53

<本佐倉城跡(奥ノ山)>

千葉氏といえば、源頼朝を庇護した千葉常胤が有名ですが、その子孫は下総国守護として連綿として戦国時代まで続きました。連綿といっても、実際は一族の分裂、家中の抗争の連続で、戦国時代の途中で勢いが衰え、最終的には小田原北条氏の傘下でかろうじて存続するまでに弱体化します。
鎌倉時代末期に近い頃、元寇の対策で九州に鎌倉の御家人が集められたとき、千葉氏もまた千葉頼胤がこれに応じて九州に赴き、元軍との戦いで傷を負い死去。子の宗胤も九州に下向、下総に帰ることができなくなり、下総は家臣に擁立された宗胤の弟胤宗がおさめるようになり、かくて宗胤の子孫の九州千葉氏と下総に残った胤宗の子孫たちと分立しました。南北朝期には、九州千葉氏は北朝、下総本国の千葉氏は当初南朝で戦いましたが、これが大きな第一回目の分裂。
そして、室町時代、元々鎌倉府の長官であった古河公方と関東管領上杉氏との対立を基軸とする享徳の大乱(享徳3年(1454)〜文明14年(1482)まで続いた関東の戦乱)がおきると、千葉氏は内部分裂します。当初古河公方方であった千葉宗家は、千葉胤直の子胤将がなくなった後、胤将の弟胤宣の代になると一転して管領上杉氏につきました。それに対し、古河公方成氏方には千葉氏一族の馬加康胤、原胤房がついて、家中が分裂したのが、二回目の分裂です。

康正元年(1455)に馬加康胤らが従来の宗家であった千葉胤直・胤宣を追い詰め、胤直・胤宣は千田庄の嶋城、多古城に逃げ、自害。胤直の弟・胤賢も小堤(おんずみ/横芝光町)で自害、従来の千葉氏宗家は滅亡。
胤賢の子・実胤・自胤(これたね)らは、曽谷氏らの支援で、市川城に籠り合戦するも武蔵へ敗走、以降かれらは武蔵千葉氏と称されました。


<市川の真間山弘法寺>

その間、将軍家から馬加康胤追討の命をうけた、美濃の東常縁らが、下総の千葉氏・原氏と戦い、その中で馬加康胤の子胤持が康正2年6月に戦死。康胤自身も同年11月に戦死したようです。しかし、それで終わらなかった。康胤にはもう一人身内がおり、それが岩橋輔胤で、その子孫が下総千葉氏の跡を継いでいきます。岩橋輔胤は康胤の子とも、弟とも、養子ともいいますが、近親者であったようです。
岩橋輔胤は、応永28年(1421)生- 明応元(1492)年2月15日没とすると、康胤が亡くなった康正2年(1456)時点で35歳。
康胤は59歳で没したとされるので、康胤とは24歳年下、康胤と同じ年に23歳でなくなったという胤持より12歳年上になります。
年齢からすると康胤の庶長子、または応永28年(1421)には康胤の父千葉満胤は隠居していましたが生存しているので、輔胤は康胤の弟でもおかしくない。「千学集抄」などでは、岩橋輔胤は今の成田市に本拠があったらしい千葉氏一族の馬場胤依の子となっています。しかし、岩橋輔胤は馬加康胤の存命中の康正2年(1456)10月に、市川の真間山弘法寺に安堵状を「平輔胤」として発給しており、その時点で康胤の後継者となっていたと考えられ、その継承をめぐって紛争も起きていないようですので、やはり岩橋輔胤は馬加康胤の近親者と考えられます。

馬加系千葉氏の享徳の大乱中の居城は、従来馬加康胤の頃にいきなり千葉城から本佐倉城とされていましたが、千葉城といっても千葉地裁の場所にあった千葉館かもしれず、また本佐倉城を築いたのは文明年間頃で岩橋輔胤か千葉孝胤が築城者、本佐倉城が完成するまでは千葉市緑区にあった平山城にいたらしいことが分かってきました。


<平山城跡の北西約900mにある平山お願い薬師・東光院>

馬加系千葉氏の居城の変遷をまとめますと、以下のようになります。
◇馬加康胤 馬加城(千葉市花見川区幕張)→千葉城(館)→平山城(千葉市緑区平山町)【伝承】

◇馬加胤持 千葉城(館)→平山城(千葉市緑区平山町)【伝承】

◇岩橋輔胤 下岩橋城?→平山城【伝承】→本佐倉城?

◇千葉孝胤 本佐倉城


この平山城跡は、千葉県教育委員会の発行した「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書機廚砲茲譴弌∪虱媚堽亢菠浸劃の標高40m、比高20mの台地上にあって、約340m×170mの広さがあるとのことですが、上の空中写真で分かるように舌状台地の先端部分にあります。実際に行ってみると、平山十字路を南に下り、長谷部入口のバス停付近で分岐する道をしばらく歩くと台地の縁辺に出て、いったん下りまた登るという調子で進めば、主郭部分や周辺に土塁が残存しています。長谷部入口から林の中を歩くような雰囲気ですが、古い大きな家があり、城跡の近くにも家が建ち並んでいます。宅地や畑など、城跡は私有地ですので、やたら入れませんが、結構な広がりを感じます。しかし、道が狭く自動車は対向車がくるとすれ違えませんし、第一置く場所がありません。長谷部の集落からは歩いていくことをお勧めします。

 

市川国府台の赤レンガ(兵器庫)見学会に参加して

  • 2015.11.30 Monday
  • 22:05


<赤レンガの見学会〜開始前の様子>

11月29日(日)の午前、市川の赤レンガをいかす会主催の国府台の赤レンガ(旧陸軍の兵器庫)の見学会があり、行って来ました。なお、見学会には 私が行った時間帯では200人くらいでしょうか。以前、戦争遺跡の写真展示を行った際、赤レンガをいかす会からパネルを借りたことがあります。


<赤レンガの横の大きなイチョウ>

赤レンガとは、陸軍教導団の兵器庫で、明治20年くらいの建造物であり、県内では最古のレンガ造りの建物、全国的にも古く、舞鶴などの赤レンガよりも古いそうです。
レンガの積み方はフランス積みという昔の積み方で、レンガの長手と短い面が交互になる積み方です。建物は2階建てで、江戸川側に出入口があり急な階段がついていて、内部は木造です。

戦後千葉県の血清研究所になり、1階は冷蔵庫などが置かれて改造されましたが、2階はほぼ当時のまま、窓には鉄格子がはめられています。鉄格子は兵器庫であったので、外から侵入できないようにしたもので、これも当時のものらしい。
建物の2階は、板張りで特に目立ったものはありませんが、軍帽か何かを吊るしたのか、小さな吊り金具と「兵器掛」「使役兵」といった紙の札が残っています。


<窓には鉄格子が今も残る>


今は血清研究所としての利用は終わり、県の所有のままですが、何も使われずに残っています。使われていないと痛みも出てきて、また東日本大震災の際に屋根 の一部が壊れ、劣化が目立ちだしました。赤レンガをいかす会では、これを平和、文化の施設として残そうとしています。文化財の保存運動という意味では、松ヶ崎城も同様で、文化財が適切に扱われ、保存されることを望むものです。


<展示されていたパネルの一部>

なお、赤レンガの絵葉書を買いました。 松ヶ崎城の会でも、同じように絵葉書を作成し、城祭り、フリマなどでも売ってきましたが、テーマは全然違うものの、1枚100円というのは同じでした。

 

下総三山の七年祭り(続き)

  • 2015.11.07 Saturday
  • 10:11


<二宮神社の境内>

三山七年祭りの続きです。

三山七年祭りが成立したのは室町時代、馬加康胤の妻の安産祈願をきっかけとしてということですが、馬加康胤という下総千葉氏の宗家を滅ぼし、馬加系千葉氏の千葉介就任までの流れを作った張本人に関わる祭りということで、そちらに目がいきがちですが、本来はもっと古い時代からあった地域結合や豊作豊漁祈願が根底にあったと思います。

そもそも、船橋市三山にある二宮神社は、諸説ありますが、10世紀延喜式の「千葉郡 寒川神社」であるといいます。 今の千葉市の蘇我に近い場所にも寒川という地区があり、そこの神社も寒川神社といいますが、延喜式にあるのは、こちらの二宮神社の方らしい。江戸時代の途中までは、寒川村といった千葉市の寒川神社の方を「寒川」という地名にフィットするためか、延喜式の「千葉郡 寒川神社」とする説が言われていましたが、近くの神明社とごっちゃになったり、混乱がありました。 清宮秀堅の「下総国旧事考」で二宮神社こそが、「千葉郡 寒川神社」とされ、以降それが定説になっています。 二宮神社を中心とする三山地区は古代から寒川神社の名が示すように湧水地を持つ豊かな土地であったようで、三山の地は有力な荘園に囲まれていました。三山は「御山」や「宮山」を地名の起源とするといわれ、今も二宮神社の役員の法被などには「御山」という字が使われています。


<二宮神社の神輿を待つ人々>

この二宮神社には、菊田川の水源があり、そうした湧水で水が豊かであった、この地域は、後に三山庄(荘)といわれることになり、二宮神社は、近傍神社の惣社的な地位にありました。特に、菊田川の下流には菊田神社があり、菊田川水系で二つの神社が結ばれていたことになります。


<前回の七年祭りの際の菊田神社の花流し(右側が金棒)>

二宮神社と関係の深い習志野市津田沼(旧地名:久々田)にある菊田神社の由緒によれば、治承5年(1181)に藤原師経、師長卿の一族郎党下総に左遷のみぎり、相模国より乗船し相模灘を経て袖ヶ浦に来たところ、海が荒れていたため、波が静かな所を探して久々田の浜に上陸した。そこに久々田明神が住民たちに祀られていたのを、藤原師経たちは航海の無事をこの祭神のためと深く感銘し、久々田明神をあがめ奉り、この地を安住の地と定め、久々田明神に祖先の藤原時平を合祀して暮らした。後に、師経の一族は三山の郷に移住し、子孫は神官になったということです。
また藤原時平は八千代市に複数ある時平神社で祀られています。 
神社の縁起はなぞに包まれていることが多く、藤原師経や藤原時平というビッグネームでは必ずしもないような、藤原氏に連なる誰か下級官僚のような者が流され、それが菊田神社や時平神社の縁起となったいうことはあるかもしれません。


<囃子連>

考えてみると、この祭りには色々な要素が含まれ、時代の変遷をたどるうちに、重層的にそういうものが祭りの内容として残っていたのではないでしょうか。

羽織につば付のカンカン帽のような帽子をかぶった二宮神社の役員さんたちの服装は、大正から昭和初期の旦那衆の服装のようにみえますし、花笠をかぶった金棒の若い衆は派手な格好で、他県の祭りでもある花笠のいでたちに、修験道の錫杖が組み合わさったようで、これは江戸時代とかもっと前にはなかった衣装だと思います。

時代のながれで、昔は湯立祭りで神がかりになった神官が、本祭の日取りをその場で言って祭りの日程が決まっていたようですが、戦後には11月のどこかの土日になるように前々から日程が組まれているようです。 七年祭りという大規模な祭りで、なにかと準備があり、また付近の交通を遮断したり、役所や警察などへの届け出なども必要ですので、かなり前からスケジューリングしておかないといけないので、そういう形に変わったという面もあります。

↓以下は、二宮神社の神輿が神揃場から帰って来て、二宮神社の境内を練り歩くという動画です。

下総三山の七年祭り

  • 2015.11.05 Thursday
  • 22:58

<二宮神社参道入口>

この11月1日、2日と船橋市三山にある二宮神社を中心に行われる三山七年祭りがあり、少し出遅れながらも行って来ました。

下総三山の七年祭りとは
船橋市三山の二宮神社を中心に千葉市、習志野市、八千代市の広域に渡り、以下の周辺神社が参加して12年に2回丑年と未年に開催される祭り(室町時代から続くという)です。

・二宮神社(船橋市三山) :主人・父君
・子安神社(千葉市畑町) :妻・母
・子守神社(千葉市幕張) :子守
・三代王神社(千葉市武石) :産婆
・菊田神社(習志野市津田沼) :叔父
・大原大宮神社(習志野市実籾) :叔母
・高津比弯声辧僻千代市高津) :娘
・時平神社(八千代市萱田、大和田):息子
・八王子神社(船橋市古和釜) :息子

元々の地域結合に加え、藤原師経(菊田神社〜二宮神社)、馬加康胤(文安2年(1445)馬加康胤の妻が臨産の際、康胤の霊夢に三代王神があらわれ、その後康胤の妻が無事に出産し、御礼を三代王神社、二宮神社へ)の伝承により、参加神社が拡がり、今日の姿となったと思われます。


<二宮神社の神輿>

前回参加した時は、各神社の神輿が集まる神揃場に行きましたが、今回出遅れてしまったため、そこまで行かず、二宮神社のみ。もっとも、祭りの前に菊田神社の七年祭り参加の拠点となっている京成津田沼駅近くのお米屋さん付近や、八王子神社のある古和釜地区は通り道のため、何度か通り、祭礼の飾りつけの様子は見ましたが。
11月1日には、神揃場から二宮神社に帰ってくる神社の神輿を待ちかまえました。 そのとき、菊田神社の神輿の二宮神社への昇殿の様子は動画で撮影しました。以下の通りです。



なお、次に昇殿した八王子神社の神輿を撮影している最中に、デジカメのカードが満杯になり、あーあということに。
次の七年祭りまでだいぶ先ですが、準備は怠りなくしておくべきと。

千間堤を追って?

  • 2015.10.12 Monday
  • 21:17
手賀沼空撮
<手賀沼の空撮写真>

手賀沼に江戸時代中期に築かれたという千間堤。 手賀沼の治水のために築堤されたというが、実際は長くはもたず、使い物にならなかったらしいです。
それは柏市布瀬のふるさとの森付近から対岸の我孫子市新木の駅の下の方まであったようなので、以下のようにマピオンの「キョリ測」で直線距離を測ると約1.8km。今は浅間橋という橋があり、我孫子市側には千間橋という地名があります。なるほど、千間堤の名残りをとどめています。

http://www.mapion.co.jp/m/route/35.855864350175615_140.10703694665054_7/?env=0000&dist=k5X214zOq102k6p333zPl112

1間は1.81818mですので、上記で正しければ、本当に千間の堤ということになります。
これを築いたのは、井沢弥惣兵衛という江戸時代中期の治水事業を数多く手がけた方だとされています。井沢弥惣兵衛は紀州の出身で治水家であり、同じ紀州出身の将軍徳川吉宗に登用され、全国の治水、灌漑、新田開発をしたというその道のプロ。
その千間堤は享保14年(1729)に出来たとそうです。千間堤が出来て、めでたし、めでたしとなれば、よかったのですが、どうやらすぐに壊れたらしい。享保19年(1734)には洪水で切れて、その後一度も修理、再建されることがなかったといいます。

10月25日に、当会の講座で中村勝先生に、その辺りを語ってもらうのですが、千間堤があったらしい浅間橋まで行ってみました。その前に手賀の興福院の高台に登り、浅間橋の方向を見てみましたが、結構距離があります。手賀の台地下の水田もそうですが、台地下の道から広がる低地はかつては手賀沼でした。それを干拓した後の姿が今日の姿です。今は手賀沼の東は、手賀川といっていますが、みな手賀沼でした。


<手賀の高台より>

柏市布瀬の浅間橋の南側には駐車できるような場所がなく、いったん浅間橋を通って我孫子側まで行きましたが、そちらは市街地になっております。しかしながら、我孫子側の家の建てこんでいる場所は浅間橋から遠く、またそこにも駐車できそうな場所はないようです。


<浅間橋>

橋を通過する時も分かりましたが、結構周辺には田んぼの畔のような狭い場所になぜか何台も車が駐車しており、どうやら釣り客が多いようでした。
帰ってくる途中、手賀第二排水機場の横の道が結構広いのを確認し、いったんそこに入り堤防を下におりて農家の耕作用の駐車スペースらしき場所でUターンして、排水機場の横の道の路肩に駐車しました。ガードレールがないので、ハンドルを切りすぎると手賀川に転落しそうな場所です。2台先客がおり、釣竿を持った男性が車からおり、橋のたもとで釣りを始めました。


<浅間橋の東から見た手賀川>

階段で川の方に降りられる場所があり、その川に突き出した端まで降りて行けば背後には水草が茂り、手賀川がずっと先まで広がっています。かつて、手賀沼は印旛沼や霞ケ浦ともつながった香取の海の一部でした。
船を使って、松ヶ崎から香取神宮まで仮殿の屋根材となる木(多分松)を運んだことが室町時代の古文書に残っていますが、こういう場所を通って行ったのでしょう。

ふと見ると足元の約2m先には川面となっているのでした。水草が茂ってよく見えないので危ないですが、間違って川に落ちたら日にはちょっとした水難事故になるかもしれません。

白井市文化財講演会「中世白井をめぐる武士たち」に参加して

  • 2015.06.21 Sunday
  • 08:56

(白井市の矢ノ橋南側あやめ越しに二部山方面を望む)

昨日6月20日、白井市文化会館中ホールで行われた標記講演会に参加しました。ホールといっても少し小さく定員90名とのことですが、ほぼ満席で、満員の印象でした。
講師は千野原靖方先生で、房総の中世史の研究家であり、「千葉氏」、「東葛の中世城郭」「房総の戦国史」など多数の著書があります。
講演の副題は「金沢氏・相馬氏・新田岩松氏・豊島氏・高城氏・原氏・千葉氏らの動向を追って」ですが、白井は現在の成田市や佐原市周辺の埴生庄の西隣である印西条に中世前期には属し、そこは鎌倉北条氏の一族である金沢氏の所領であったために、白井にも金沢氏の一族が来たり、金沢氏の家臣とみられる富谷(富ヶ谷)氏がいたということです。

また手賀沼沿岸の南相馬郡には相馬氏が鎌倉時代から勢力をもち、姻戚で南北朝の頃には手賀郷、布瀬郷、藤心などに新田岩松氏が所領を女子相伝でもったという話。 これは以前布瀬に近い下柳戸の六所神社を会の歴史散歩で訪れた際、事前に調べたことではありますが、岩松氏が何とか一旦手許にはいった所領を維持したいという工夫を女子相伝でしたという点が面白かったです。
また布川の豊島氏や、下総全体の支配者千葉氏、その一族で勢力を伸ばした原氏、さらにその重臣であった高城氏と、系譜の紹介もしながら解説がありました。 布川の豊島氏は源氏を名乗ったということでしたが、平氏を名乗った方がいるのが文書にあるそうで、そうすると葛西氏と同族の豊島氏、戦国時代には石神井城を拠点にした豊島氏は、なぜか布川にも一族がいたということかもしれません。

古河公方方と小弓公方方が関東の支配者の正当性をめぐって争い、それに房総の諸将が加わったことも少し紹介がありました。古河公方と関東管領上杉氏の対立基軸は有名ですが、管領側だけでなく、古河公方方にも分裂があり、古河公方足利高基と小弓公方足利義明の対立は房総では千葉氏、実質的には原氏・高城氏と武田氏、里見氏の各勢力の争い、同じ勢力内での新たな分裂を引き起こし、国府台合戦につながる話として別途聞きたいとも思いましたが、講演時間の制限ゆえ紹介のみにとどまりました。

なお、何人か知り合いにあい、佐倉のWさん、小金の緑と文化財を守る会のIさん、勿論白井ですので白井市郷土史の会の小林さん、小木曽会長にもお会いしています。また、たけしま出版の竹島さんも来ていました。
事後、少しだけ千野原先生と話しました。
なお帰るときに、白井市郷土史の会の小木曽会長に会誌「たいわ」を頂きました。白井市郷土史の会は創立30周年だそうで、冊子も厚く、会員だけでなく、白井市の学芸員高花さん以下3人の寄稿や板碑が発見された山本家の山本さん自ら板碑について書いた文章などもあり、豊富な内容となっていました。これは歴楽講座か何かのときに持参し、お見せしようと思います。

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