<柏飛行場営門跡>
柏市の現在柏の葉公園や住宅地、官庁の建物などが多くある場所に戦時中あった柏飛行場は、陸軍の飛行戦隊が駐屯していた飛行場で、首都圏のほかの飛行場、成増や立川、調布、松戸、印旛などと同様に首都防衛の任務を担っていたとともに、南方への戦闘機移動元でもありました。長く柏飛行場に駐屯していた飛行第五戦隊も、昭和18年(1943)7月、ジャワ島マランに移り輸送等の掩護を行ったりしていましたが、当時の陸海軍が捷号作戦として南方から中国にかけて展開しようとした一連の大規模軍事作戦の最初にして最後の作戦であった、捷一号作戦に柏から飛行第一戦隊(捷一号作戦発動時の戦隊長は松村俊輔少佐)が参加したことは特筆すべきでしょう。
飛行第一戦隊は第十二飛行団に属し、第十二飛行団(川原八郎中佐)は第三十戦闘飛行集団(青木武三少将)に配下で、その上に第二飛行師団(木下勇中将)がありました。
『大陸指第二千二百三十四号』により、昭和19年(1944)10月18日、捷一号作戰が発動され、飛行第一戦隊はフィリピン戦線に投入されたのです。
第三十戦闘飛行集団の司令部や急きょ編成された飛行第二百戦隊という、通常の戦隊の二倍の編成(6個中隊)で戦闘機を60機も持っている戦隊は明野飛行学校を母体としており、フィリピンに色々なところから急いで兵力が集められた感があります。
飛行第一戦隊が上海、台湾経由でフィリピンのマルコットに着いたのが、昭和19年10月22日で、24日にはレイテへの総攻撃がありましたが、既にその日に飛行第三戦隊(軽爆)が、出発が定刻より遅れたことにより壊滅的な状態になるということがありました。第十二飛行団の戦闘機は川原団長以下、飛行第三戦隊を掩護すべく飛び立ったのですが、飛行第三戦隊長の木村修一中佐の搭乗機が泥濘で離陸できず、それを救出しようとした人がプロペラで負傷するなどして、飛行第三戦隊は20分ほど遅れました。一方掩護する側は第三戦隊は低空で飛んでくるものと思い、そのまま出発、丸腰状態の飛行第三戦隊は戦隊長機も含めほぼ全滅となりました。
そして飛行第一戦隊も、10月28日払暁にはマナプラ飛行場で松村戦隊長が離陸時の事故による戦死をとげ、その前後で中隊長クラスの搭乗員が何人かなくなっています。松村俊輔戦隊長は陸士46期、戦闘機に乗って十年以上のベテランでしたが、戦闘機の定位置が少しずれていたために、軌道修正がきかずに正常に離陸できず、殉職しました。なんと、11月7日付けで松村戦隊長の後任とされた春日井敏郎大尉は戦史によれば、実は10月25日に戦死していたとあり、そのあたりでパイロットの方はかなりなくなっているようです。
戦後70年、柏飛行場は遺構も少なくなり、住宅地の中に埋没している感がありますが、ここに起居した将兵は、陸軍軍人とはいえ、もとは我々と同じ市井人であり、よき親、よき息子だった筈です。戦死せずに生き残った方たちは、会社勤めをしたり、商売をしたり、軍医さんは開業医になったり、普通の市民生活を送りました。
フィリピンで戦死した春日井大尉(飛行第一戦隊元大尉のアルバムより)
一般的な研究者が行う戦争遺跡についての研究は、ややもすると戦争遺跡自体の規模や往時の機能などに目が行きがちで、かつ聞取りなども割合に聞取りがしやすい飛行場周辺の住民や工事などに動員された勤労学生だけにとどまっていて、やすきに流れているようです。軍人出身でないような、普通の研究者は、軍隊の細かいことまで知りませんし、軍隊生活がどのようなものか実感で知ることもなく、肝心のそこで訓練し、生活していた、戦争末期にはB29を迎撃したりした当の軍人たちへの密着した聞取りなどはあえてしない、面倒なことは避けているのではないかと思われる場合さえあります。 いくら周辺住民に聞いても、飛行場内部、軍内部のことは分かりません。 飛行場の兵舎で寝起きし、実際に飛行場で訓練、出撃した人でしか分からないことが多いのです。
<終戦直後の1948年の国土地理院空中写真(NI-54-25-1)に文字入れをおこなった>
不戦の誓い新たに、旧軍のこと、アジア・太平洋戦争の実相を知ることは、二度と悲惨な戦争を起こさないということにもつながります。