1.秋水開発の経過
太平洋戦争末期、米軍のB‐29による日本本土爆撃に対して高度1万m以上を飛来するB‐29に対して日本軍の戦闘機はエンジンに高高度用過給器を装備していないため充分に迎撃することが出来ませんでした。
そのため高高度の希薄な大気中でも飛行可能なロケットエンジンを装備した戦闘機を陸海軍と民間で共同開発することが計画されました。一方、当時同盟国のドイツではロケット戦闘機メッサーシュミットMe163が既に開発されていました。
ドイツのそうしたロケット戦闘機の機密資料を積み、昭和19年(1944)3月フランスのロリアンを出航した2隻の日本の潜水艦のうち、1隻は大西洋にて撃沈され、後発の潜水艦伊29も、7月14日、日本占領下のシンガポールに到着したものの、バシー海峡で米海軍の潜水艦に撃沈されてしまいました。しかし、伊29潜に乗っていた巌谷英一海軍中佐が、ドイツ航空省から渡された資料を零式輸送機に乗り換えて日本に持ち帰り、その資料をもとに日本版のロケット戦闘機は設計・開発されたのです。
巌谷中佐が持ち帰った資料は、Me163B の機体外形3面図などわずかなものでした。
それらの数少ない資料を基に短期間の間に軍と民間(三菱重工) で試行錯誤を繰り返しながら開発を行い、昭和2O年(1945)に試作1号機が完成しました。
そして海軍は、昭和2O年(1945)7月7日に横須賀市追浜の海軍飛行場にて試験飛行を実施したのです。
しかし試験飛行は離陸には成功したが、エンジントラブルで機が墜落して、操縦していた犬塚大尉は殉職しました。その後、実戦配備に向けて訓練及び開発は終戦まで継続して行われましたが、当時の空襲による工業力の低下や初めてのロケットエンジンの開発等に多くの難問があり結局終戦までに実際に飛行したのは犬塚大尉の乗った一機のみでした。
<ロケット戦闘機秋水搭乗要員聞き取りの記録動画(イントロ)>
2.無謀な計画のもとで
秋水は、乗員一名、尾翼のない三角形の主翼のみの小型飛行機ながら、ロケット燃料の甲液(過酸化水素の濃度80%の水溶液と安定剤)と乙液(水化ヒドラジン30%とメタノール57%、水13%の溶液に、銅シアン化カリを少量混入)の混合による反応により推力を得て、最高時速900Km、約3分半で高度1万mまで達する、という画期的な戦闘機でした。
それは、1万mという高高度に駆け上がって、装備されている30ミリ機銃2門で銃弾を撃ち込み、その後もロケット燃料による上昇と下降を繰り返し、最後に燃料が尽きると、グライダーのように滑空して、胴体から出した橇で着地するもので、操縦するのにも高い技量を必要としました。また1回の飛行に、約2トンと大量な燃料を必要としたのです。
秋水は約1年の開発の後、当初昭和20年(1945)9月までに数千機作る計画であったといい、生産計画自体、無謀であったと思われます。
最初、燃料を自製できることから、軍首脳はこのロケット戦闘機に飛びついたのですが、ロケット燃料の甲液である過酸化水素の80%もの高濃度のものは、日本では生産したことがなく、高濃度の過酸化水素は、強酸性で鉄などの金属類を溶かし、不純物が入ったりすると爆発するという扱いに困るものでした。また燃料の生産、貯蔵容器の確保などには多額の費用が必要でした。
3.戦争の記憶と遺構
陸軍では、柏飛行場に秋水を配備する計画でした。柏柏飛行場が首都東京に近く、1,500mの舗装滑走路を持ち、銚子沖などから東京に侵入してくるB29を邀撃するのに絶好の位置にあったことがその理由です。陸軍の航空審査部の関係者が柏飛行場近くの寺院などに宿営、秋水実験隊の拠点が作られました。
また、過酸化水素などロケット燃料の貯蔵庫として、地下燃料庫が建設されました。最初は十余二の飛行場に近い場所に主に実験飛行用、後に昭和20年(1945)春頃にリスク分散のため、柏飛行場から東へ2Kmもはなれた花野井や大室に地下燃料庫が建設されました。
花野井・大室の地下燃料庫の建設を指揮した森川陸軍少尉は現地に滞在し、多くの朝鮮人労務者が建設に従事しました。
一方、海軍でも横須賀の海軍航空技術廠や元山航空隊、百里基地などで、海軍三一二航空隊(秋水隊)を中心に搭乗要員の訓練がおこなわれました。
当会は今年3月に海軍の秋水搭乗要員だった方(元海軍中尉)の聞取りを行いました。そこでは、低圧タンクなどの装置を使った種々の訓練、三一二航空隊士官パイロットによる「秋水」命名の経緯、試験飛行時の様子と犬塚大尉の殉職などについて、詳細に語られました。また8月24日には、花野井の秋水地下燃料庫の見学会を行いました。
戦後長らく世に知られて来なかった秋水ですが、関係者の証言や関連の戦争遺跡(下図参照)は残っています。
秋水は戦争末期にたった1年の短期間に海陸軍と民間が総力を挙けて協カし試験飛行までにこぎ付けましたが、一方その開発や燃料生産に多大な資金を要し、国民生活に大きな負担を強いるものでした。
*8月24日の当会主催の秋水地下燃料庫見学会資料(若山善幸会員、山崎舜造会員作成)をもとに加筆しました