下総三山の七年祭り(続き)

  • 2015.11.07 Saturday
  • 10:11


<二宮神社の境内>

三山七年祭りの続きです。

三山七年祭りが成立したのは室町時代、馬加康胤の妻の安産祈願をきっかけとしてということですが、馬加康胤という下総千葉氏の宗家を滅ぼし、馬加系千葉氏の千葉介就任までの流れを作った張本人に関わる祭りということで、そちらに目がいきがちですが、本来はもっと古い時代からあった地域結合や豊作豊漁祈願が根底にあったと思います。

そもそも、船橋市三山にある二宮神社は、諸説ありますが、10世紀延喜式の「千葉郡 寒川神社」であるといいます。 今の千葉市の蘇我に近い場所にも寒川という地区があり、そこの神社も寒川神社といいますが、延喜式にあるのは、こちらの二宮神社の方らしい。江戸時代の途中までは、寒川村といった千葉市の寒川神社の方を「寒川」という地名にフィットするためか、延喜式の「千葉郡 寒川神社」とする説が言われていましたが、近くの神明社とごっちゃになったり、混乱がありました。 清宮秀堅の「下総国旧事考」で二宮神社こそが、「千葉郡 寒川神社」とされ、以降それが定説になっています。 二宮神社を中心とする三山地区は古代から寒川神社の名が示すように湧水地を持つ豊かな土地であったようで、三山の地は有力な荘園に囲まれていました。三山は「御山」や「宮山」を地名の起源とするといわれ、今も二宮神社の役員の法被などには「御山」という字が使われています。


<二宮神社の神輿を待つ人々>

この二宮神社には、菊田川の水源があり、そうした湧水で水が豊かであった、この地域は、後に三山庄(荘)といわれることになり、二宮神社は、近傍神社の惣社的な地位にありました。特に、菊田川の下流には菊田神社があり、菊田川水系で二つの神社が結ばれていたことになります。


<前回の七年祭りの際の菊田神社の花流し(右側が金棒)>

二宮神社と関係の深い習志野市津田沼(旧地名:久々田)にある菊田神社の由緒によれば、治承5年(1181)に藤原師経、師長卿の一族郎党下総に左遷のみぎり、相模国より乗船し相模灘を経て袖ヶ浦に来たところ、海が荒れていたため、波が静かな所を探して久々田の浜に上陸した。そこに久々田明神が住民たちに祀られていたのを、藤原師経たちは航海の無事をこの祭神のためと深く感銘し、久々田明神をあがめ奉り、この地を安住の地と定め、久々田明神に祖先の藤原時平を合祀して暮らした。後に、師経の一族は三山の郷に移住し、子孫は神官になったということです。
また藤原時平は八千代市に複数ある時平神社で祀られています。 
神社の縁起はなぞに包まれていることが多く、藤原師経や藤原時平というビッグネームでは必ずしもないような、藤原氏に連なる誰か下級官僚のような者が流され、それが菊田神社や時平神社の縁起となったいうことはあるかもしれません。


<囃子連>

考えてみると、この祭りには色々な要素が含まれ、時代の変遷をたどるうちに、重層的にそういうものが祭りの内容として残っていたのではないでしょうか。

羽織につば付のカンカン帽のような帽子をかぶった二宮神社の役員さんたちの服装は、大正から昭和初期の旦那衆の服装のようにみえますし、花笠をかぶった金棒の若い衆は派手な格好で、他県の祭りでもある花笠のいでたちに、修験道の錫杖が組み合わさったようで、これは江戸時代とかもっと前にはなかった衣装だと思います。

時代のながれで、昔は湯立祭りで神がかりになった神官が、本祭の日取りをその場で言って祭りの日程が決まっていたようですが、戦後には11月のどこかの土日になるように前々から日程が組まれているようです。 七年祭りという大規模な祭りで、なにかと準備があり、また付近の交通を遮断したり、役所や警察などへの届け出なども必要ですので、かなり前からスケジューリングしておかないといけないので、そういう形に変わったという面もあります。

↓以下は、二宮神社の神輿が神揃場から帰って来て、二宮神社の境内を練り歩くという動画です。

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