千葉氏を継いだ岩橋輔胤と平山城

  • 2015.12.23 Wednesday
  • 22:06

<千葉館があったという千葉地裁周辺>

享徳3 年(1454)より文明14年(1482)まで続いた関東の戦乱、いわゆる享徳の大乱は、鎌倉公方のちの古河公方足利氏VS関東管領上杉氏の対立を基軸としていましたが、それは各陣営の関東の諸豪族の内部分裂も引き起こしました。
下総の千葉氏は、享徳の大乱の前までは鎌倉公方・古河公方足利氏の側に大方ついていましたが、その前は管領上杉氏についたりしていました。千葉胤直の子で千葉氏宗家を継いだ胤将が古河公方支持だったのが享徳3 年(1454)6月に若くして亡くなると、そのあとを継いだ弟の胤宣はまだ9歳で、胤直が後見しました。この直後に享徳の大乱の時代に突入し、千葉氏宗家の胤直・胤宣は関東管領上杉氏の側につきます。
しかし、従来古河公方を支持してきた千葉氏家中からは、胤直の叔父の馬加康胤や重臣原胤房らが異を唱え、ついに康正元年(1455)に馬加康胤が挙兵、原胤房とともに従来の宗家を攻撃します。千葉館にいたと思われる胤直・胤宣は同年8月千田庄の嶋城、多古城に逃げ、自害。翌月胤直の弟・胤賢も小堤(おんずみ/横芝光町)で自害、千葉氏宗家は滅亡。ちなみに今まで一般に千葉城という亥鼻城が千葉氏歴代の居城とされてきましたが、室町時代まで千葉氏当主は千葉館などの居館にいて、亥鼻城は千葉館の防衛のために室町時代中期位に築城されたらしいことが最近分かっています。


<亥鼻城の主郭>

胤賢の子・実胤・自胤(これたね)らは、曽谷氏らの支援で、市川城に籠り合戦するも武蔵へ敗走(武蔵千葉氏となる)。
これで、下総千葉氏の事実上の当主は馬加康胤ということになりますが、千葉氏の一族で美濃の豪族東常縁が室町将軍家の許可を得て、馬加康胤討伐に向かいます。康正元年(1455)には馬加城は落城。なお、馬加康胤と一緒に戦っていた原胤房は東常縁の攻撃の前に、同年11月に敗走してしまいます。
康正2年(1456)1月、千葉実胤・自胤は市川城に籠り、古河公方を迎撃(市川合戦)、古河公方方勝利、千葉実胤・自胤ら武蔵へ。しかし、東常縁やその配下で土岐氏の浜春利らが、馬加康胤・胤持父子の勢力を攻撃、同年(1456)6月、馬加胤持(当時22歳か)戦死してしまいます。しかし、馬加康胤は岩橋輔胤とともに、関東管領・将軍家の側と戦い続けます。
同年10月25日、岩橋輔胤は、市川の真間山弘法寺に安堵状を発給。恐らく岩橋輔胤は市川合戦に参加し、合戦後も市川にとどまっていたのでしょう。またこの頃「東野州常縁と馬加陸奥守並岩橋輔胤、於所々合戦止隙なし」(鎌倉大草子)ということで、どうやら馬加康胤とともに戦った岩橋輔胤が、康胤の後継者となったようです。康胤は康正2年(1456)11月1日に、下総の南、今の市原市と千葉市を流れる村田川付近の戦いで戦死し、その時59歳(83歳という説もあり)だったといいます。市原市八幡の無量寺に馬加康胤・胤持父子の墓がありますが、康胤の首塚というのも、幕張の大須賀山砦という馬加城近くの台地にあります。首塚には寛永14年(1637)在銘の安山岩製の五輪塔が、供養塔として建てられております。しかし、「寛永十四年丁丑天 二月十一日建立朝雅宥光宥得二親」とあり、朝雅という僧?が両親の供養のために建てたようで、後世に別の五輪塔を持ってきたようです。
馬加城は今は跡形もなく、どこにあったのかも分からないくらいで、伝承地は幕張のマンションと畑となっているのですが、近くに三代王神社があり、そこへ馬加康胤が奥さんの安産祈願をしたという伝説があり、それを由来として三山の七年祭りが今もさかんに行われています。船橋市、習志野市、千葉市、八千代市の4市の九つの神社が参加する壮大な祭りで、馬加康胤の奥さんの安産祈願が始まりだという解説が、船橋市、習志野市の公式HPその他広くなされ、意外に地元では馬加康胤はフレンドリーな存在になっています。


<三代王神社の鳥居>

ところで輔胤は康胤の存命中に真間山弘法寺に安堵状をだしていることになりますので、それは康胤の承認はあったものと考えられます。岩橋輔胤は馬加康胤の庶長子とも弟ともいいますが、はっきりしません。ただ、馬加康胤と共に戦い、康胤没後も一貫して古河公方方で、かなりむきになって戦い続けています。そうすると、やはり康胤の身内かなと思います。馬加と岩橋では名字が違うじゃないかという向きがありますが、領地の地名を名字として名乗る習慣から当時は名字が違う親子や兄弟など山ほどいましたので。
岩橋輔胤は千葉大系図では馬加康胤の庶長子、松羅館本千葉系図では馬加康胤の弟を康胤が養子にしたとあります。系図以外に馬加系と考えられる根拠としては、
・馬加康胤と共に東常縁ら足利将軍家/関東管領の勢力と戦っている(「鎌倉大草紙」)
・馬加康胤の生前、真間山弘法寺に安堵状を発給、康胤死後も一貫して古河公方を支持して戦った
ということがあげられます。
「千学集抄」など、一説には千葉氏一族の馬場胤依の子とされます。これは、千葉氏胤の子馬場胤重の子孫で岩橋(現酒々井町)周辺に勢力があったという馬場氏の出としたものです。しかし、「千学集抄」は千葉妙見宮の関連文書で江戸初期に成立、千葉氏任官運動で「悪名」高い馬加の出というのを避け、意図的に馬場氏系としたものかもしれません。あるいは岩橋輔胤は馬場氏の姻戚か、単に馬場氏の後で岩橋を領したものか、あるいは母方が馬場氏ということも考えられます。戦国後期の千葉親胤家臣に馬場胤平の名がみえ、成田市の寺台城城主馬場氏の伝承がありますが、原氏などと比べ有力といえず、馬場氏が馬加氏の跡を継承したとは考えにくいと思います。

 その馬加康胤を祖とし、宗家を乗っ取ったとして「悪名」高い、馬加系千葉氏ですが、馬加城が落とされ千葉館に行ったらしく、さらに東常縁らに攻められて 千葉館を放棄、その後文明年間に本佐倉城を築くまで拠ったと思われるのが、前回述べた平山城です(左は陸軍参謀部迅速測図をベースにした 歴史的農業環境閲覧システムからの図です)。岩橋輔胤の子、千葉孝胤の代には本佐倉城にいたことは間違いないのですが、それまでの馬加系千葉氏の居城はよく分からないとされてきました(もっとも後述するように文書にははっきり書かれていましたが)。


「屋方様(千葉孝胤)千葉より平山へ御越し、又長崎へ移らせられ、それより佐倉へ移らせらる。文明十六年甲辰六月三日、佐倉の地を取らせらる」(「千学集抄」)  *文明16年は1483年、康正元年(1455)の28年後
「輔胤平山を取たつ。孝胤迄二代御座也。夫より長崎へ移る。其の後佐倉ヘ移り給ふ」(「妙見実録千集記」)と、平山城が本佐倉城を築き、居城とするまでの馬加系千葉氏の拠点であったと、文書は書いています。

上記で長崎は場所不明、佐倉市の寺崎と言われてきましたし、寺崎の密蔵院の付近には立派な石碑まで建っていますが、信じがたいものがあります。一説にいう長峰とすれば、千葉市若葉区大宮町で、城郭の多い場所でもあり、どちらかといえばそちらの方が合っているかもしれません。


<長谷部の集落を行く>

さて、平山城ですが、千葉市緑区平山町の平山十字路の南、長谷部入口のバス停付近で分岐する道沿いをまっすぐ行き、しばらく歩いた後、住宅地を右側に進むと主郭部があるということですが、実際歩いてみると、途中谷のように低くなっており、また長く歩くということで、多少分かり難いです。主郭近くは古い集落になっていて、もしかして宅地のなかに城跡があるかと、うろうろしていたところ、たまたま落ち葉をはいていた年配の男性に妙見神社の場所を聞いて、主郭部分にたどり着きました。
主郭部は東西150m近くありそうな広い場所で、妙見神社以外は林と畑になっています。北側が台地続きとなっていて、南、東、西が低地に面した舌状台地の先端にあり、南側には狭い谷津がありますが、千葉氏の本拠とした千葉市中心街から遠く、今も周辺の道は狭いですが、台地と低地の入り組んだおよそ大軍が攻めにくい場所にあります。


<平山城跡に建つ妙見神社〜社殿の裏にも土塁が残る>


<台地中段の腰郭らしき平場>

なお、主郭付近には土塁の残欠がいくつかあり、特に台地西側端の土塁は内側の高さが2mほどですが、基底部は8mはありそうな大きな土塁で、台地中腹からみると切り立った感じがします。また主郭部のある台地の西側から台地下に降りる道沿いに腰郭らしき平場がみえ、その道も竪堀を拡幅した可能性があると思いました。
この平山城を拠点としながら、岩橋輔胤はその名字の地である岩橋に近い、本佐倉に築城のプランを練り、ひそかに城普請に着手していたのでしょうか。
城跡の北西約900mの地点にある平山お願い薬師・東光院は七仏薬師を祀っており、七仏薬師は馬加系千葉氏が信仰した妙見の本地でもあります。しかし、平山城跡も含めて案内板一つないのは、いったいどういうことでしょうか。


<平山お願い薬師の石段>
 


 
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